第1章
空の名前
2023年4月、阪神競馬場。
パドックに響く蹄鉄の音が、いつもより乾いて聞こえた。
アキノソラは首を高く上げ、春の陽射しの中をゆっくりと周回していた。栗毛の体が光を受けて赤銅色に輝く。額の白い流星が、カメラのフラッシュを反射するたびに揺れた。
「仕上がり最高だな。今日も勝つぞ」
厩務員の中島健太が、その背に手を添えて呟いた。5歳の春。通算17戦11勝。GIを3つ獲り、デビューから13連勝の記録を打ち立てた「秋空の無敗神話」は、競馬ファンなら誰もが知っていた。
大阪杯、GI。18頭立ての1番人気、単勝オッズは1.3倍。
「行ってこい、ソラ」
中島がぽんと首筋を叩くと、アキノソラは小さく鼻を鳴らした。いつもの合図だった。
ゲートが開いた。
スタートは完璧だった。3番手の外を追走し、向こう正面で少しずつポジションを上げていく。鞍上の河野光一騎手が手綱を軽く握り直す。脚は溜まっている。3コーナーから4コーナーへ、加速の態勢に入った。
場内がどよめいた。
いつもの、アキノソラの時間が始まる――はずだった。
4コーナーを回りきった瞬間、河野の手に異変が伝わった。左前肢。わずかな違和感が、1完歩ごとに確信に変わっていく。
「ソラ……!」
河野は即座に手綱を引いた。観客席のざわめきが、一瞬にして静寂に変わった。大型ビジョンに映し出されたアキノソラは、直線の入り口で力なく減速していた。
左前肢屈腱炎。
診断を聞いた調教師の藤川誠一は、厩舎の壁にもたれたまま、長い間目を閉じていた。
「先生、手術すれば――」
中島の声に、藤川は首を振った。
「腱がやられとる。戻らん。……この馬は、もう十分に走った」
その夜、アキノソラの馬房には静寂だけがあった。左前肢に巻かれたバンテージの白が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいた。
馬は痛みを隠す動物だ。群れの中で弱みを見せれば、生き残れない。だからアキノソラは、3本の脚で静かに立っていた。
翌朝、中島がいつものようにニンジンを持って馬房に来た。アキノソラはそれを受け取ったが、咀嚼する音がいつもより遅かった。
「なあ、ソラ」
中島は額の流星に手を当てた。
「お前の行き先、まだ決まってないんだ」
競馬の世界では、走れなくなった馬の価値は急落する。種牡馬になれなければ行き先は限られる。乗馬クラブ、観光牧場、そして――誰も口にしたがらない場所。
中島はその現実を知っていた。だからこそ、この手で何とかしたかった。
「俺が絶対、見つけるから」
アキノソラは中島の手のひらに鼻先を押し当てた。温かかった。競馬場の朝は、いつもと変わらない顔をしていた。けれど、この馬房から見える空は、もう昨日と同じ空ではなかった。
アキノソラという名前を付けたのは、オーナーの妻だった。秋の空のように澄んだ瞳をしていたから。
その瞳が今、馬房の小さな窓から、春の曇り空を見上げていた。
走ることしか知らなかった馬が、走れなくなった朝。
それが、全ての始まりだった。