第1章
名もなき最終レース
2023年、11月。北関東のどこにでもある地方競馬場に、乾いた風が吹いていた。
スタンドの観客はまばらだった。平日の最終レース——12頭立ての1400メートル、C3クラス。競馬新聞を握りしめた数人の常連と、缶コーヒーを啜る老人たちが、色褪せたプラスチックの椅子に腰を沈めている。歓声とは呼べない低いざわめきが、灰色の空に吸い込まれていった。
7番ゲートに入ったその馬を、誰も見ていなかった。
アオハル——栗毛の牡馬、6歳。通算成績は42戦3勝。額に小さな流星を持つ以外、目立った特徴はない。かつて中央のトレーニングセンターに在籍したこともあったが、未勝利のまま地方に移籍し、このクラスに落ち着いてから、もう3年が経っていた。
ゲートの中で、アオハルは静かに前を見つめていた。鉄の匂い、隣の馬の荒い息遣い、遠くから響くファンファーレ。そのすべてが、もう数十回と繰り返してきた景色だった。
「——おい、7番のアオハル。今日が最後だってよ」
パドックの柵の外で、競馬新聞を丸めた男が隣の連れに囁いた。
「最後?引退か」
「らしいな。厩務員の藤崎って子が、パドックで泣きそうな顔してたって話だ。まあ6歳でC3じゃ、仕方ないだろう。馬主だって預託料がかさむ一方だしな」
「引退っていっても、行き先は決まってんのか」
男は答えなかった。缶コーヒーを傾けて、最後の一口を飲み干した。その沈黙が何を意味するのか、長く競馬場に通う人間なら、誰もが知っていた。
* * *
ゲートが開いた。
12頭の蹄が一斉にダートを叩き、砂煙が低く舞い上がる。アオハルの出足は、いつも通り半歩遅かった。致命的ではないが、決して速くはない。テンの3ハロンで後方5番手につけ、内ラチ沿いをじっと追走する。騎手の若い手が、無言で手綱を握り締めていた。
3コーナー。先頭の2頭が競り合い、ペースが上がった。砂が容赦なくアオハルの顔に降りかかる。それでも、6歳の栗毛は黙って走り続けた。1完歩、また1完歩。42戦をかけて覚えた、自分だけのリズムで。
直線に向いた。残り200メートル。アオハルは外に持ち出された。騎手のステッキが2発、3発と飛ぶ。脚は伸びた。確かに伸びた。だが前の馬たちとの差は、もう詰まらなかった。
8着。
掲示板にも載らない着順。拍手もない。実況のアナウンサーすら、アオハルの名前を1度も呼ばなかった。
* * *
検量室の裏手、薄暗い洗い場で、1人の若い女がアオハルの脚元にホースの水をあてていた。
藤崎遥、25歳。アオハルの担当厩務員だった。
短く切り揃えた髪が水飛沫で額に貼りつく。日に焼けた細い腕には、無数の小さな傷跡があった。馬にぶつけた痕、蹄鉄で擦った痕、爪で引っかかれた痕——すべてがこの3年間、アオハルと過ごした証だった。
「……おつかれ」
声は震えていた。遥はアオハルの首筋に手を置いた。汗と砂にまみれた栗色の毛が、まだ温かかった。アオハルは首を下げ、遥の肩のあたりに鼻先をそっと押しつけた。ふう、と太い息を吐く。それはいつもの仕草だった。レースが終わるたびに、この馬はこうして遥の匂いを確かめるのだ。
「先生。アオハルの件——行き先、本当に決まってないんですか」
背後に立っていた調教師は、帽子のつばを指で弾いた。50代半ば、日に焼けた顔に刻まれた皺が深い。目を合わせなかった。
「……うちも厩舎の枠が限られてる。馬房が空かないと次の馬を入れられない。馬主さんだって、これ以上は持てないって言ってる」
「じゃあこの子、どうなるんですか」
調教師は答えなかった。帽子のつばを深く下ろし、洗い場を出ていった。
遥の手が止まった。ホースから流れ落ちる水だけが、コンクリートの床を叩いている。
アオハルは変わらず、遥の肩口に鼻先を押しつけていた。まるで、自分がどこへ行くのかなど、最初から知っているように——穏やかな目で、ただ静かに立っていた。