第1章
最後の直線
2023年6月。園田競馬場、第9レース。
梅雨の合間に顔を出した陽射しが、ダートコースを乾かしている。パドックでは9頭の馬が周回を続けていた。ゲートインの時刻が近い。実況席のモニターに出走表が映し出される。5枠7番、ヒカリノタテガミ。栗毛、牡8歳、58戦目。
波多野誠一はヘッドセットを装着し、手元の出走表に赤ペンで馬番と枠順を確認した。26年間やってきたルーティンだ。ヘッドセットの側圧がこめかみを押す感覚も、もう体の一部のようなものだ。
ゲートが開いた。
「各馬一斉にスタートしました、先手を取ったのは2番サンライズボーイ、2番手に4番マチカネフジ、3番手集団にヒカリノタテガミが控えている。向こう正面、隊列は縦長、ヒカリノタテガミは中団5番手の外を追走、手応えは悪くない」
波多野の声が場内に響く。実況席から見るダートの砂煙は、距離を置くとどこか美しい。馬の息遣いは聞こえないが、蹄が地面を叩くリズムは肌で感じる。
「さあ第4コーナーを回って最後の直線に入った。先頭はサンライズボーイ、2馬身のリードを保っている。ヒカリノタテガミは5番手、外から脚を伸ばしてくるか。ヒカリノタテガミ、ヒカリノタテガミ、じわじわ上がってくるが届かないか。サンライズボーイが逃げ切った。ヒカリノタテガミは6着で入線」
マイクを切り、ヘッドセットを外した。額の汗を拭う。窓の外では、騎手たちが馬を引いて引き揚げていく。ヒカリノタテガミの金色の毛並みが午後の光を弾いていた。あの色を、波多野は6年間見てきた。
「波多野さん」
放送室のドアが開いて、同僚の藤川が顔を出した。30代前半、まだ実況歴の浅い後輩だ。
「ヒカリ、来月で競走馬登録を抹消するそうです。屈腱炎、左前。何度目かで、もう限界だろうと」
「そうか」
波多野は出走表に目を落とした。ヒカリノタテガミの成績欄に赤ペンで「6着」と書き込む。58戦7勝。C1クラスの、名もなき馬の最後の数字だった。
「引退したら、あの馬どこに行くんだ」
「さあ。オーナー次第ですけど、決まってないみたいですよ」
決まってない。その言葉が喉に引っかかった。6年間、58回、この声で名前を呼んだ馬の行き先が、決まっていない。
藤川が出ていったあと、波多野は窓の外を見た。ヒカリノタテガミはもう見えなかった。馬場の砂煙だけが、風に流されて消えていった。