第1章
帰る場所
2月の浦河は、息をするだけで肺の奥が痛くなる。
午後3時を過ぎたばかりだというのに、日高山脈の稜線はもう薄墨色に沈みかけていた。牧場の入口に続く砂利道を、白い馬運車がゆっくりと登ってくる。タイヤが凍った轍を踏むたびに、鈍い軋みが冬枯れの空気を震わせた。
風見義孝は、厩舎の前に立っていた。作業着の上に羽織ったカーキ色のジャンパーは肘のあたりが擦り切れている。吐く息が白く、すぐに消える。62年間この土地で生きてきた男の顔は、日高の風に削られて深い皺が刻まれていた。
馬運車が止まる。エンジンが切られると、あたりは急に静かになった。遠くで鴉が1声鳴いたきり、音が止んだ。
運転席から降りてきた輸送業者の男が、荷台の扉に手をかけた。
「風見さん、着きましたよ。道中おとなしいもんでした」
義孝は小さく頷いた。
ステップを降りてくる蹄の音が、コン、コン、と2拍子を刻む。黒鹿毛の牝馬が姿を現したとき、義孝は思わず目を細めた。
カゼノスミカ。3年前の春、この牧場で生まれた馬だ。
体高162センチ。均整のとれた体格だが、輸送の疲れで馬体には汗の跡が縞模様のように残っている。深い茶褐色の馬体は冬の曇天の下では黒に近く見えた。額の白い星と、左後脚のソックスだけが暗い毛色の中で浮かび上がっている。大きな目がきょろきょろと周囲をうかがい、耳がせわしなく前後に動いていた。
12戦、0勝。獲得賞金480万円。
それがこの馬の競走成績のすべてだった。
「――おう」
義孝が声をかけた。それ以上の言葉が出てこなかった。「おかえり」と言うべきなのか、「すまなかった」と言うべきなのか、わからなかった。
カゼノスミカは、義孝の声に耳を傾けるように首をかしげた。そして、差し出された掌にそっと鼻先を押し当てた。湿った鼻息が、義孝のひび割れた手のひらを温めた。
厩舎の奥から、妻の節子が出てきた。手にはバケツと古いタオルを持っている。馬を見て、それから夫の横顔を見て、少しだけ唇を引き結んだ。
「……痩せたね、この子」
「ああ」
「馬房、用意してあるから。藁も敷いたし、水桶も入れた」
「ああ」
節子はそれ以上何も言わなかった。この牧場に繁殖牝馬は3頭いる。飼料代だけで毎月15万近くかかる。もう1頭、走れない馬が加わった。通帳の残高がどうなるか、彼女がいちばんよく知っていた。
カゼノスミカが、ふいに顔を上げた。牧場の奥に広がる放牧地を、じっと見つめている。雪に覆われた丘の向こうに、生まれたときに駆け回った草原がある。今は白く凍りついて、何もない。
義孝は曳き綱を握り直した。
「行くぞ」
短く言って、歩き出す。カゼノスミカは半歩遅れてついてきた。蹄が凍った地面を踏む音だけが、静かな牧場に響いていた。
勝てなかった馬が、帰ってきた。
この先どうなるのか、誰にもわからなかった。