第1章
最後の直線
11月の東京競馬場は、乾いた風が砂埃を巻き上げていた。
地下馬道の薄暗い通路を、リアンドールは静かに歩いていた。蹄鉄がコンクリートを叩く音が壁に反響する。隣を歩く厩務員の中西勇は、手綱を握る力をいつもより少しだけ緩めていた。5年間、毎朝この馬の馬房を開け、飼い葉を量り、馬体を洗い、脚元に包帯を巻いてきた。今日がその最後の日になる。
「リアン、行くぞ」
中西が低い声で呼びかけると、リアンドールは耳を片方だけ中西のほうに向けた。信頼の証だった。この馬はいつもそうだ。全幅の信頼を寄せる相手にだけ、片耳を向ける。
パドックに出ると、秋の陽射しが栗毛の馬体を照らした。金色がかったたてがみが風に揺れ、額の細い流星が白く光った。白い足元が芝の上を踏むたびに、観客の視線がちらりと向けられ、そしてすぐに別の馬へ移っていく。6番人気。32戦目。2勝クラスの5歳牝馬に、多くの期待は集まらない。
それでも中西は知っていた。この馬がどれほど真面目に走ってきたか。調教で一度も手を抜かなかったこと。ゲートの中で暴れたことが一度もないこと。4つの勝ち星のどれもが、最後の1ハロンで歯を食いしばるようにして掴み取ったものだったこと。
鞍上の安藤光一郎がパドックの隅で待っていた。34歳。中堅のジョッキーで、リアンドールとのコンビは直近の8戦を数える。
「中西さん、左前の感触は」
「朝の段階で少し熱があった。テーピングはしてあるが、正直、万全じゃない」
安藤は黙って頷いた。騎乗の合図で中西がリアンドールの背に安藤を送り出す。鐙を合わせ、手綱を整える安藤の手が、一瞬だけリアンドールの首筋に触れた。
「頼むな」
それが誰に向けた言葉なのか、中西にはわからなかった。
ファンファーレが府中の空に響いた。ゲートが開き、歓声が弾ける。リアンドールは中団に控えた。3コーナー、4コーナー。直線に向いた。安藤のステッキが動く。
だが、馬は伸びなかった。左前脚を庇うように、ストライドが短くなっていく。前を行く馬たちの蹄が巻き上げる芝の欠片を浴びながら、リアンドールはゆっくりと失速した。
12着。
引き揚げてきたリアンドールを中西が受け取った。馬体からは汗と土と草の匂いがした。中西はホースで水をかけ、汗を流しながら脚元を確かめた。左前の腱が、明らかに腫れていた。
その夜、厩舎で獣医の診断が下った。左前脚の屈腱炎。競走能力の回復は見込めない。
調教師の三島が中西に言った。
「抹消の手続きに入る。オーナーにはもう伝えた」
「引退後は」
「オーナーは手を引くそうだ。行き先はこれから探す」
中西は馬房に戻った。リアンドールは飼い葉桶に顔を突っ込んでいた。いつもと同じ食欲。いつもと同じ穏やかな目。自分の人生が今日変わったことを、この馬はまだ知らない。
中西はリアンドールのたてがみに手を入れた。金色の毛が指の間を流れた。
「お前、明日からどうなるんだろうな」
リアンドールは中西の掌に鼻を寄せ、ふっと温かい息を吹きかけた。