第1章
最後の直線
11月の中山競馬場に、冷たい風が吹いていた。
ターフビジョンに映し出された出走表の7枠14番に、「サクラノハナビラ」の名前がある。父ノーザンスプリント、母ハナビマチ。通算成績32戦4勝。7歳牝馬。かつてオークスで3着に食い込んだ脚は、もうどこにも残っていなかった。
パドックを周回するサクラの左前脚には、屈腱炎の名残がうっすらと浮いている。それでも鼻筋を走る一本の白い流星は、曇り空の下でもはっきりと光って見えた。
「……脚元、どうだ」
厩務員の田島祐介は、引き馬をしながら小さく声をかけた。34歳。日に焼けた首筋に汗が滲んでいる。サクラは耳をぴくりと動かしたが、何も返さない。ただ、いつもより少しだけ歩様が硬い。それだけで田島には十分だった。
5年間、毎朝4時に厩舎に入り、この馬の脚を触ってきた。獣医より先に異変に気づいたことが、2度ある。
「田島くん、今日で最後だから。頼むよ」
調教師の声が背中にかかる。田島は振り向かずに頷いた。準オープンの1800メートル。サクラにとって、これが最後のレースになる。引退は、もう決まっていた。
ゲート裏で、サクラの耳がぴんと立った。小刻みに震えている。デビューから32戦、この癖だけは変わらなかった。田島はサクラの首筋にそっと手を当てた。
「大丈夫だ。いつも通りでいい」
ゲートが開いた。
14頭の馬体がターフに弾け出す。サクラは中団の外目、10番手あたりを追走していた。前半の1000メートル通過が59秒8。ペースは落ち着いている。だが、3コーナー手前で田島はスタンドのモニターから目を逸らした。わかっていた。あの脚では、もう伸びない。
最後の直線、サクラは懸命に脚を動かしていた。前の馬との差は縮まらない。鞭が入る。1回、2回。それでも12着。掲示板にすら載らなかった。
レース後、検量室の裏手で騎手がヘルメットを脱ぎながら言った。
「田島さん、この馬……最後まで走ろうとしてましたよ。脚が言うこときかないのに、気持ちだけで走ってた」
田島は何も言えなかった。ただ、引き揚げてきたサクラの鼻先に額を寄せた。サクラの荒い呼吸が、田島の首元を温かく湿らせた。
厩舎に戻ると、調教師が事務所の前で待っていた。
「来月から3歳のグリーンウインドが入るから、そっちを頼む。サクラの引き取り先は、まだ決まってない。乗馬クラブに声はかけてるが——」
「決まってない、って……」
「田島くん。競馬ってのはそういう世界だろう。走れなくなった馬を、いつまでも厩舎に置いてはおけない」
田島は黙ったまま、暗くなり始めた厩舎通路を歩いた。サクラの馬房の前で足を止めると、サクラが首を伸ばして田島の肩に鼻を押しつけてきた。温かかった。
——この馬が、明日からどこへ行くのか。
競馬場の照明が落ちていく。11月の風が、厩舎の隙間を低く鳴らした。田島のスマートフォンには、「引退馬 引き取り先」と打ちかけた検索窓だけが、白く光っていた。