第1章
音のない牧場
12月の北海道、日高。藤崎遼一はレンタカーのハンドルを握りながら、助手席に放り込んだカメラバッグをちらりと見た。カーナビが示す目的地まであと3キロ。窓の外には枯れた牧草地がどこまでも続き、鉛色の空が低く垂れ込めている。
「引退馬の養老牧場を撮ってほしい」
編集者の赤坂にそう言われたのは先週のことだ。藤崎はフリーランスのカメラマンとして10年、競馬場の熱狂やゴール前の砂煙ばかり撮ってきた。だが半年前のある出来事以来、シャッターを切る指が動かなくなっていた。仕事を選べる立場ではない。断る理由もなかった。
牧場の入口に車を停めると、12月の風が容赦なく頬を叩いた。厩舎の前で長靴を履いた女性がこちらに手を振っている。
「藤崎さんですか。お待ちしてました、牧場長の中川志帆です」
小柄だが背筋のまっすぐな女性だった。日焼けした頬、使い込まれた革手袋、そして人の目をまっすぐ見る強い瞳。30代半ばに見えるが、この牧場を1人で切り盛りしていると聞いている。
「今うちには12頭います。全部元競走馬で、重賞を勝った馬は1頭もいません」
中川は歩きながら放牧地に目をやった。
「ほとんどが3勝クラスにも届かなかった馬たちです。成績が残せなかった馬は、引退後の引き取り手が見つからない。セン馬なら種牡馬にもなれない。行き先がなければ、最悪の場合は」
その先を、中川は飲み込んだ。藤崎はカメラを構えたが、ファインダーの中に何を収めるべきか分からなかった。
そのとき、放牧地の奥に1頭だけ離れて立つ白い馬が目に入った。他の馬たちには背を向け、遠くの山並みをじっと見つめている。冬の陽光を受けて、白い体が淡く光っていた。たてがみが風に揺れるたびに、銀色の糸のように輝く。
「あれは」
「シロガネノカゼ。屈腱炎で引退した9歳のセン馬です。ここに来て半年になりますけど、まだ人に慣れなくて。厩務員の田中も手を焼いてます」
藤崎は無意識にシャッターを切った。半年ぶりだった。指が覚えていた感触に、自分自身が驚いた。
白い馬がゆっくりとこちらを振り向いた。黒い瞳が藤崎をまっすぐに捉えた。
その瞬間、風の音が消えた。中川の声も、遠くで鳴く馬のいななきも。世界から一切の音が抜け落ちて、静寂の底に、たったひとつだけ声が落ちてきた。
「おまえも、走れなくなったのか」
藤崎の手からカメラが滑り落ちそうになった。心臓が跳ねる。今の声はどこから聞こえた。誰が言った。
白い馬は何事もなかったかのように、再び山の方を向いた。たてがみが風になびいて、その姿はまるで、誰かを待っているように見えた。
「藤崎さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」
中川の声で、世界に音が戻った。風が、馬の鳴き声が、枯れ草を踏む足音が、一斉に耳に流れ込んでくる。
「いえ、何でもありません」
藤崎はそう答えながら、震える手でカメラを握り直した。ファインダー越しに、白い馬の背中がまだ見えていた。