第1章
最後の釘音
朝5時の美浦トレーニングセンターは、まだ霧に沈んでいた。厩舎の通路に立ち込める藁と馬糞の匂いのなかを、黒沢鉄男は重い工具箱を提げて歩いていた。62歳。装蹄師として40年、この道を何千回歩いたか数えたことはない。ただ、今日で最後だということだけは知っていた。
「鉄さん、おはようございます」
声をかけたのは坂東厩舎の厩務員、宮里咲良だった。26歳、短く束ねた髪に泥のついた長靴。テツノキザシの担当だ。
「おう。脚の具合はどうだ」
「昨日の調教後、左前の球節あたりを少し気にしてました」
鉄男は洗い場に繋がれたテツノキザシの前に立った。黒鹿毛の馬体、額を走る大きな流星。地方で9勝を積み上げた脚にはまだ張りがある。左前の蹄を持ち上げ、蹄鉄の磨耗を指先で確かめた。
「削蹄のバランスが外側に寄ってる。球節に負担がかかるな」
鑢をあてながら続けた。
「蹄は嘘をつかない。走り方の癖、痛みを庇ってるかどうか。全部ここに出る。獣医の診断書より先に、蹄鉄が教えてくれる」
新しい蹄鉄を炉で赤く焼き、金床の上でハンマーを振るった。甲高い金属音が厩舎に響く。テツノキザシが一瞬耳を伏せ、すぐに戻した。慣れている証拠だ。蹄鉄を水に沈めると白い蒸気が上がり、蹄底にあてて焼き付く蛋白質の匂いを確かめる。
釘を7本、正確に蹄壁に打ち込んだ。角度が1度ずれれば蹄を傷つける。鉄男の手に迷いはなかった。
通路を戻る途中、坂東調教師が腕を組んで立っていた。
「鉄さん。テツノキザシ、来月の園田が最後になるかもしれん」
「屈腱炎か」
「再発だ。次やったら終わりだと獣医が言ってる」
鉄男は黙った。43戦走った馬の脚は限界を知っている。それを一番近くで感じてきたのは鉄男自身だった。
「引退したら行き先はあるのか」
坂東は目を逸らした。「セン馬だからな。乗馬クラブに声をかけてるが、屈腱炎持ちを引き受けるところは少ない」
毎年7000頭以上が競走馬登録を抹消される。その大半の行方を、誰も追わない。
工具箱を軽トラの荷台に載せた。助手席には古い木箱がひとつ。蓋を開けると、磨り減った蹄鉄が隙間なく並んでいる。どれも鉄男が外した馬のもので、裏面に油性ペンで馬名と日付が書いてあった。
一番手前の蹄鉄に目を落とす。
テツノキザシ。2024年3月。
装蹄師が最後にする仕事は、蹄鉄を打つことではない。外すことだ。競走馬でなくなる日に蹄から鉄を外す。40年で何百頭分の蹄鉄をこの箱に入れてきたか。
霧が薄くなりはじめた美浦の空を見上げて、鉄男はエンジンをかけた。